yukiotalkの日記

出張・旅行が多かったので、国内外を中心に旅行の体験を中心に書きたいと思います。

初めての海外は中国

初めての海外訪問は中国、天津でした。中国語は全くできず、全て駐在員が通訳等をビジネス交渉を行うかたちです。1980年頃でまだ事前にビザをとって渡航する時代であった。実は海外渡航そのものが初めてであり、それが中国ということである。

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北京空港に到着し、入国審査を最短化するため、手荷物だけにしたが、それがかえって悪く、ゲートを出ても駐在員がいなく、タクシーの運転手が中国語で声をかけてくるが、全く意味わからず、40分ほど待って、駐在員に会えたという事態であった。当時は荷物をあずけると到着後ゲートをでるまでに1時間半程度かかるのが普通で、駐在員はそれを見越しての出迎えであった。結局、その後も海外出張は中国ばかりが続くこととなった。仕事は石油化学関連であったが、同分野ではアジアでは日本が先端を行っていた。アジアでは次いで台湾、韓国であった。中国はまだ全くの後進地域であり、大部分を輸入に依存していた。日本はその恩恵をうけていたのであった。
残念ながら当時の写真は残っていない。それほど興味もなかったこともその理由である。北京から天津は距離にして150Km程度である。当時は車で高速道路もなかったので2時間半くらいであった。道路はまだ整備されておらず、未舗装の道をヘッドライトもつけず走るのである。対向車が近づいてくると互いにライトをつけ、すれ違った後は再びライトを消して走る。当然は街灯もほとんどない道路である。安心して乗ることはできないドライブであった。初めて天津を訪れたとき、やはり天津甘栗、天津麺など食べてみたいと思ったが、そんなものはどこにも見当たらなかった。「天津港」が積み出し港であったことから、日本では中国から渡来したものに天津という名前をつけたようである。

何回か訪問している間に日本のバイヤー(メーカー)が同行したことから、万里の長城や明の十三陵など観光地訪問した。多いときは四半期毎に訪問していたので主な観光地を訪問できた。
数年後、日本人の訪問者も増加してきた頃、ホテルの売店などで天津甘栗も売られてきたが、殆ど虫の喰った甘栗ばかりであった。甘栗は山地方面で収穫されるが、虫の喰っていない良質のものは、全て日本向けに輸出されていたのである。天津麺ではなく、普通の中華麺はあったが麺は日本のものと全く違っていた。そのうち天津にも日本のビジネスマンが多く訪問するようになり、日本風居酒屋ができたり、クラブ(マリーン神戸)ができたりした。しかし、かならず役所、警察関係者が客の中にいるのが普通であった。まだ、北京でも日本風居酒屋もクラブもなく、中国では最も早く開けた町であったであろう。しかし、当時は絶えず見張られているようで、決してリラックスできたものではなかった。